決して閉鎖的な社会ではないのだが、“オタマジャクシ”などと戯れているうちに、いつのまにか自分達の間でだけ通用する特殊なコトバが使われるようになる。長い歴史の中で数多くの本混用語が生まれては消えていった。今時のギャルたちがオトナにはわからぬ奇妙な言語で会話するのもうなづけるというものだ。以下、すでに死語となった古いものから現在も使われるものまで順不同で書き記しておく。

用 語 編

たどぽうる11号表紙『たどぽうる』英語Tadpole(おたまじゃくし)に由来し、本庄混声合唱団機関誌として不定期かつ長期にわたって発行された。単純に活動紹介のパンフレットだった時代、文芸誌的傾向が強く団員全員が作品を発表した時代、対外PR誌として利用された時代と、本混の歴史と共に歩み、いま消滅しかかっているのは残念である。コンサートやイベント、団員の結婚式等、必ず別冊が発行され(これが滅法面白かった)多くの読者に支持されてきた。本混の歴史を物語る資料として集大成しておくことが急務である。

 
1969年1月15日発行の『たどぽうる』第11号。
  文芸誌タイプ。初期タプロイド版が散逸している。
  資料をお持ちの方は至急御連絡下さい。  
  ここからダマさんへメールが出せます。


『ハモる』 ハーモニーする、ハーモニーさせる。「ハモ」の部分は語幹であり本来は外来語なのでカタカナ、「る」の部分は活用語尾だから平仮名表記が正しい。ら行五段活用動詞“ハモらない・ハモります・ハモる・ハモるとき…”あんまりハモりそうにないなァ。

『メンタる』 メンタル・ハーモニーを昂揚させる行為。則ち「潤滑油であるアルコールを摂取する」こと。ら行五段活用動詞。“メンタらない・メンタります・以下略”「どうだい、今夜あたりキューッと一杯、メンタろうじゃないか」(ちょっと志ん生風)と使う。但しオーバー・メンタルてダウンするドジも少なくなかった。

『ヒヨる』 本来は学生運動や労働運動の用語で「日和見する」〜つまり過激な行動に踏み切れない意志の弱さをなじることばであった。本混ではソロを割り当てられた団員が「そんな高い音、本番でひっくり返ったらヤバいよ」と尻込みをすること。後年は少し難しそうな曲を練習中に「これ、音程採りにくいからやめようよ」と弱音を吐く意味に変わった。理由は? ソロを歌える人材がいなくなったので、ソロの必要な曲は指揮者が初めから選ばないだけのことである。

『お座敷』古い時代の日本では、芸者さんが酒席に呼ばれることを「お座敷がかかる」と言った。本混で「お座敷」とは、学校や公民館などの公共団体や、会社または労働組合(当時は労組の全盛時代、団員の大部分は組合員)から出演を依頼されることをさし、その時歌われる小品を「お座敷小唄」(往年の大ヒット曲も忘れられたか)と呼んだ。「お座敷」の機会は極めて多かった。珍しいものをいくつかあげておこう。お祭りに呼ばれて神楽殿でアカペラの男声コーラス、曲目が『バナナ・ボート・ソング』なんて信じられますか。それを平気でやってのけ、出演料代りのニ合壜(一合=180ml)をラッパ飲みして歌いながら町を練り歩いたのだからエグい。選抜メンバーの四重唱では、ファッション・ショウのバックでマヒナスターズ風のムード歌謡を歌って黄色い声援を浴びるなど、浮世離れのした武勇伝まであった。なお、この連中、示し合わせて突然バカでかいフォルテを出し、拡声装置を故障させて喜んだというからますますヒドイ。この日はギャラも滅法良かったが、四人はそのまま普段より少しグレードの高い店へ飲みに行って調子に乗り過ぎ、請求書を見て青くなった。金額は高額ギャラの二倍を越えていたのである。


本混名士(迷士?)迷言・迷場面 列伝

あんちゃん 『あんちゃん』 その昔、本混の歴史に重きをなした岩田勝義・達夫兄弟がベース・パートで並んで歌っていた。達夫君(今は小学校の教頭)が勝義君を呼ぶのに「おい、あんちゃん」と言った。兄弟だから当たり前の話なのに、いつのまにか団員みんなが勝義君を「あんちゃん」と呼ぶようになった。「ねえちゃん」は二組あって、金井さん姉妹は初期本混メンバー。何故か妹さんの方が元気であった。平賀さんは姉弟。ねえちゃんは現・武政夫人。弟はマッちゃんの御主人。現在ではダマさんが奥さんを呼ぶ時「おい、おばあちゃん」と呼ぶが、良い子のみんなは決して真似してはいけません。
   
写真は若き日のあんちゃん。イイ男だったねェ。

『カイダンジ』昔々、中山道と銀座通りの間に細い道があって“本庄名店街”と洒落た名前がついていた。名店街の一角にあんちゃんの家があり、家の前には“街頭テレビ”があって、人々が集まっては力道山に歓声をあげたりしていた。二階には本混の悪童共がたむろしていて、優しい母上殿は目を細めて彼等の会話を聞き「うるさいから出て行つて」などとは決しておっしゃらなかった。ある日、階下で呼ぶ母上の声に「はいよ」と返事をしたあんちゃんが一歩踏み出した時、彼の足の下にあったのは“空気”であり、一同が見ている前で大きな物音と共に下まで転がり落ちたのに怪我がなかったのは奇跡的だった。それ以来、彼には「あんちゃん」の他に「名店街の階段児」と言うあだ名がついた。

ベトコンの河馬
 『ベトコンの河馬』 その昔、本混は夏になると必ず山でキャンプをした。まだ若かった(今も若いって? そりゃお世辞だよ)中沢君が流行の網シャツ(ランニング)を着て林の間から顔を出したのを誰かが「なんだ、お前。ベトコンの河馬みたいな顔しやがって」意味不可解だが何故かおかしくて、中沢君をさす愛称になり、後日キャンプのアルバム写真でこのエピソードに尾ひれがついてポピュラーになった。     
 右はキャンプ当日の貴重な証拠写真。本人いわく「カメラが壊れてたんだ。本当はもっといい男」だってさ。
なんぼなんでも「河馬」は失礼でしょう。(え、河馬が怒るって?)


 
『おい、小松!』 練習中、音程が怪しくてダマさんはイライラ。それでも特定の個人を叱りたくないので「おい、ベース。しっかり聞いて!」と注意した。当然顔は某団員を見据えていたが…。ところが怪しい張本人のT君はすぐに隣を向いて「おい、あんちゃん、音程がおかしいぞ」言われたあんちゃん、次の席を向いて「おい、中沢、よく聞けよ」言われた中沢君、当然隣を向いて「おい、小松!」ところが毎晩の残業でお疲れの小松君は楽譜を前に立ててグッスリおやすみの最中。練習会場は爆笑の渦。それ以来誰かの音程が怪しいと決まって「おい、小松!」の声が飛び交うようになった。小松君がいない時まで音を外した本人が「おい、小松!」を連発したのである。
 なにしろ古い昔の話。伝説は次第に変型するものなので、一度、小松君本人に事実を確かめたことがある。彼の言い分は「俺は眠ってたから音を外す筈がないんだ」とのこと。それを聞いて中沢君「いや小松は居眠りしながら寝言で歌ってたのさ。天晴れあっぱれ」…やはり真相は
「薮の中」である。(註:芥川龍之介の小説。黒澤明の名画『羅生門』の原作)

『ゴールデン・ポケッツ』 若手のホープ、千代田・高柳・中沢・岩田(勝)がクヮルテットを組んだ。「昔子供でなかった大人はひとりもいないのです」(サン・テグジュベリ『星の王子様』)そう、昔はみんな若かったのである。グループのネーミングを相談して毎晩メンタっていたが、中沢君の提案であっさり「ゴールデン・ポケッツ」に決まった。アメリカの人気グループゴールデン・ゲイト・クヮルテットを真似したわけでは勿論なくて、「ポケット」を日本語で言えば「かくし」つまり、ゴールデン・ポケッツは『きんかくし』(トイレの部品)の複数形だったのは当時から公然の秘密であった。一部に流れていた「金閣寺」説は、三島由紀夫ファンによるジョークである。(埼玉県合唱連盟の故尾花理事長もこの説を信じていた)

『利根の河風袂に入れて』 ゴールデン・ポケッツのメンバーをステージで紹介していたのが、当時アルトのメンバーでもあった伊藤(現井草)光子さん。伊勢崎出身の高柳昭男君のことを「利根の河風袂に入れて(浪曲の名文句)毎晩本庄まで練習に通います。ついでに余暇を善用してエーザイに勤務。」とやってしまった。お客様の中には冗談が通じないで本気で怒っていた上司の方がいたとかいなかったとか…。 実はあの科白、ダマさんが原稿を書いて伊藤さんにしゃべらせたのが真相である。筋はできていたとしても彼女の当意即妙の話術で観客を沸かせたのだが、それもこれも遠い昔話になってしまった。

『営業用の笑顔』 当時、例の小松君は足利銀行員。何故か本混には銀行員が多かった。ある日会計役員が団の通帳を持って神戸銀行(現大陽銀行)へ行ったら窓口の女性がこぼれるような笑顔で「いらっしゃいませ」と迎えてくれた。待てよ、あの声は聞き覚えがある。ソプラノの岡野(現姓赤星)さんではないか。それにしては何と優しく愛嬌たっぷりの挨拶、練習場で「しっかり歌いなさい、集中が足りないのよ」と叱咤している顔とは別人である。後日、本人に話したら「あれは営業用の笑顔、他のお客様の前で“何だAちゃんか”なんて顔するわけにいかないでしょ」それ以来、ステージで硬くなった顔を見ると誰からともなく「ほら、営業用の笑顔!」の一言がかけられるようになった。 
  筆者註:文中「Aちゃん」とあるのは「栄ちゃん」のことではありません。当時、栄ちゃんはまだ小学生でした。念のため。


呼べどコダマは帰らない
 
呼べどコダマは帰らない』前記本混キャンプエピソードの続編。強行軍の日程に当時から年上だった(?)ダマさん少々くたびれてうたた寝していたところを誰かが撮影。当時のアルバムに書かれた楽書きをそのまま忠実にコピーする。“病気療養中のところ薬石効なく永眠致しました。生前多くの皆様に御迷惑をおかけしましたが本人もそのことをたいへん気にしてましたので、この顔に免じて水に流して下さい。なお、本人の生前の意志により御供物、御供花の類は喜んでお受けいたします。あヽ呼べとコダマは帰らない”〜これが笑い話になるのが本混の人間関係であった。こんな書いた犯人は誰だか、もちろんちゃんとわかっているぞ。

   このページの貴重なキャンプの写真は井草様の提供によるものです。


『赤鬼と青鬼のタンゴ』(別名『赤タン青タン』)
1978年7月、埼玉会館大ホールでの第23回埼玉県合唱祭は大騒ぎになった。ブレザーやネクタイをつけずTシャツとジーンズで歌いながら踊る本混。ダンスのリーダーは川上(現姓木崎)秀子さん・愛称デコちゃん。おまけに最後の曲がNHK「みんなのうた」の人気曲『赤鬼と青鬼のタンゴ』である。テレビでお馴染みの赤鬼どんのお面をつけたデコちゃんが指名したパートナー、つまり青鬼どんは当時若手のホープ中園数彦君。「ムーミンパパ」のあだ名の通り、大柄でおっとりしていて動きが俊敏とは言い難い中園君にデコちゃんが厳命した。「だまって私のリードについてくるのよ。適当に動けば誤魔化せる!」彼は勿論タンゴなど踊れるはずがない。運の悪いことに当日は伴奏者が急病でピアノはダマさんの即興演奏、八小節の短い間奏の筈なのに、何と調子に乗って「ラ・クンパルシータ」を長々と弾き出しちまった。デコちゃんニヤリ、ムーミンパパ冷や汗タラ〜リ。彼がもたもたすればするほど聴衆は大喜び。元気な赤鬼どんと動きの鈍い青鬼どんの対比を狙った演出と誤解してくれたらしい。本混はそんな計算された芝居をできるチームじゃないのに。(中園君ごめんネ)残念ながらこの決定的瞬間の写真が残っていない。多分プロのカメラマンもたまげてシャッターを切れなかったのだろう。別の部分のダンスシーンを掲載したが中園君が写っていない。中央の小柄な女性がデコちゃん。右隣が若き日の学さん。市役所の飯島・岩崎両氏と、GPの千代田氏や後に佐々木夫人となるヤギちゃんの顔が見える。なお、デコちゃんは今も元気で高校生にダンスの真髄を教えようと全精力を傾け、芸術性と教育の両立を模索しながら毎日実践を続けているという真に尊敬すべき女性である。デコちゃん先生、団員・OBに煎じて飲ませるから、爪の垢を捨てずにとっておいて下さい。

『田舎のバス』赤鬼・青鬼の話を読むと、県の合唱祭でこんなバカなことをやる団体は他にないと思うでしょう。ところが、過去にもあったのである。本混男声部による別働隊「本庄メール・クワイア」の悪ガキ供。初期の合唱祭で右隅のメンバーがおもむろに音叉を使って音を取る様子のパントマイム、実は音叉など持っていない。隣の奴は彼の右耳に自分の左耳を当てて、フムフムとうなづく。全員が耳から耳へと音のリレー。そんなことできるわけないのに大真面目、最後の一人はオーバーにうなづいてからやおらピアノに近づいてポンと主音を鳴らす。聴衆はあっけにとられている。そして演奏した曲が当時のお笑い歌謡曲『田舎のバス』(オリジナル歌手は楠敏江!)この楽譜、なんと藤原歌劇団男声部によるプロ合唱団・福永陽一郎氏主宰の東京コラリアーズのアンコール・ナンバーを楽屋に押しかけて強引に貰ってきたもので(誰がかって? そりゃ決まってるだろ)オペラ歌手ならではの即興パフォーマンスもいっぱい指定されている。バスが田舎道にさしかかると牛の登場、若かったダマさんのウルトラ大声・バカ・ベースで「モーオ」とフォルティッシモをかます。この凄い鳴き声、想像でるかな? 東北弁丸出しの清水君演じるバスガール(死語?)が珍妙なセリフ連発で笑わせ、バスがパンクするシーンで誰かが隠し持っていた風船をパーンと破裂させたから会場はびっくり仰天。まあ、当時の男声には劇団文学座とかけもちの役者が二人ほどいたとは言え、全員がバカになりきるのは簡単ではない。それ以来、本混のバカ演技は県の合唱祭でも人気の的となったが、こんなことばかりやっていては肝心のコーラスがおろそかになるので、やがて本混は「一年おきにバカをやる」ことにした。本混が二年に一度、真面目に歌った作品は、多くの合唱団が競って取り上げて県合唱界のトレンドを作り、今年はバカをやる年と知って楽しみにするファンまでできた。例の赤鬼・青鬼もそうした流れの中でのできごと。ジーンズで踊るだけではなく、ギターを弾きながらフォークソングを歌ったり、要するに一般の合唱団がやらないユニークなことを本混はやり続けたのである。




本庄混声合唱団独唱(奏)者・伝説の名演


小澤・赤星独唱 
レクイエム『無名戦士』小澤博  薬科大学を出てエーザイ本庄工場に着任したばかりの小澤博氏、彼は当時、NHKのど自慢歌曲の部でしばしば優秀賞をさらってくる“のど自慢あらし”の名テナー。TBSに出演した時、技術や音楽性に厳しくて絶対に出演者をほめないことで有名だった審査員の高木東六氏が、彼の歌うトスティを絶賛した。柏グリークラブ創立以来の名テナー・野口和東氏と並ぶ本混テナー陣黄金時代の幕開けである。彼の最高の名演は第16回定期演奏会(1970.11.15)での清瀬保二作曲作曲レクイエム『無名戦士』のテナー独唱パートであった。無謀な戦いに出陣し南の島で人知れず死んでいった兵士の無念を綴る祈りの歌を、叫んだり泣いたりせず、美しい声に乗せて切々と心に訴えたのである。兵士の妻を歌ったのはソプラノの岡野(現赤星)恭子さん。これもまた泣かせる名演だった。小品でも小澤氏のソロは毎回のようにフューチャアされた。記憶に残る事件(?)は第8回定演(1965)オープニングのスヴェシュニコフ編曲のロシア民謡『鐘の音は単調になる』… この年、女声の新入団員が多く技術的にやや不安があった。開幕早々の1曲目、女声二部合唱でスタートする部分の階名だけ書き記すと、ソプラノが“ミ・ファ・ソ・ファ・ミ”アルトが“ド・レ・ミ・レ・ド”と三度で動くだけの、小学生でも歌える音程である。ところが、こともあろうに女声の音程がおかしくなった。ベテランは何とか立て直そうと青くなる。新人組は聞いたこともないユニークな響きなので、責任を感じてか逆に周りの音を聴かずに張り上げる。引き延ばされた“ミ”と“ド”の和音は、どんな音律体系にも存在しない摩訶不思議かつ画期的な音程になり、指揮者もうろたえた。独唱者はどうやって歌い出しの音程を取るのか、ここで演奏を中断した方が良いのか、運を天に任せて(これをウンテン手という)このまま続けるべきなのか… 一瞬の不安が永遠の長さとも思われた時、小澤氏は涼しい顔で自分の音程で歌い始めた。今考えると彼はやはり絶対音感の所有者だったのかも知れない。二拍後から出る男声も独唱の音程に従ってピタリと完全五度を合わせ、乱れた女声も立ち直ったのである。この回、沖電気関係のオーディオ・マニアの方が録音装置をテストしておられたので、後日コピーしていただき、本混史上初のステレオ録音がこの曲となった。団員がこれを耳にしたのは数年後のことであった。自分達で録っていたモノラルと比較すると圧倒的に存在感のある再生音にオーディオ好きの団員達は喜んだが、単純なハーモニーが大きく乱れ、立ち直るまでの“長いようで実際はあっと言う間で、記憶の中ではやはり極めて長いドキュメント”もまた極めてリアルにテープに刻まれていたのである。
   
写真は『無名戦士』を歌う(左から)岡野・小澤両氏。 snake legs?

 
『源兵衛さんの赤ちゃん』中沢章(Br)1960年頃、中沢君・入団一週間目に、当時武政君、伊藤(現・井草)さんが勤務していた富士機工の労働組合(だったと思う)からお座敷がかかっていて、当然のことながら自分のパートの音程も覚えていない彼に岩田あんちゃんが言った。「おい中沢、度胸をつける練習にステージに出ろ。但し、声を出しちゃ駄目だぞ。口をパクバクさせて適当に合わせたふりをしろ」ヒドイものであるが、中沢君、餓鬼の頃からの友人に素直に従った。しかも男声合唱の『源兵衛さんの赤ちゃん』(ジョージア・マーチにふざけた歌詞をつけた当時のスタンダード・ナンバー。但し缶コーヒーのCMではない)を歌う時、あんちゃんは「ここで独唱の中沢ア−キラ氏を御紹介します」とやってしまった。独唱者は団員の前に立ち、歌が始まったが、彼はいっこうに歌い出す気配がない。聴衆は期待と不安のまなざしで見つめている。最後のフレーズ「なかなか泣き止まない」が終わった瞬間、彼は拳骨で目をおさえて大声を出した。「オギャア〜」 これがベトコンの河馬こと中沢氏の初舞台であった。


小松フルート 
“藤岡のランパル”小松亮正(fl)ゴールデン・ポケッツの舞台で伴奏を弾いていたのはダマさん。ピアノパートは全てヘッド・アレンジで楽譜になっていない。その日の気分でテキトーに弾くから同じ曲でも歌う度にイントロのメロディーがが違っていたり間奏が長かったり短かったりする。藤岡市生れで入団したばかりの小松君が学生時代ブラスバンドでフルートを吹いていたと聞くと、珍しく五線紙を出して間奏のメロディーを書きなぐって小松君に渡した。「これを吹いてみろ」彼はすらすらと初見で吹いた。曲はサトウハチローの反戦詩による名曲『百舌か枯木に』。その楽譜は全くの即興で書いた追分け風のオリジナルでああった。ところが本番の舞台でダマさんが彼に渡したパートのコピーが見当たらない。もしかしたらコピーさえ取らなかったのかも。さがしている時間はないのでフルートを聞きながら即興のメロディーの伴奏を即興で弾いた。フルートがそれに応えて当意即妙に朗々と歌い、譜面にとらわれないからこそ余計に素晴らしい出来であった。小松君の株は一晩で急騰。その後フルート助奏つきの合唱曲を続々と演奏。「藤岡のランパル」と呼ばれるようになった。小松君ばかりか、一代の名フルーティスト、ジャン・ピエール・ランパルの名前さえ、今は忘れられかけている。月日の経つのは残酷なまでに早いものである。


演奏曲目題名編

 それぞれの業界でだけ通用する言葉〜隠語のようなものがある。音楽の世界では、バンドマンの言葉が有名だ。単純に何でもひっくり返すだけだが、耳に馴染み易いように適当に加工する。「ジャズ」は「ズージャ」、「ピアノ」は「ヤノーピ」、「トロンボーン」は「ボントロ」というように。指揮者が「ボウフリ」など、クラシックでも共通である。昔、大学生が中心だった合唱の世界では、曲名を省略して“四文字言葉”風にするのが流行った。「月光とピエロ」が「つきピエ」あたりはまだ可愛いが、モーツァルトのレクイエム(鎮魂ミサ曲)が「モツレク」となるとそのセンスには首をかしげたくなる。本庄混声合唱団でも、かつてこのテの題名省略遊びがあった。但しまともな省略ではなく、言葉が短くなるとは限らず、ナンセンスの精神がこもっているものが多いのがいかにも本混風である。いくつか紹介してみよう。

『いぬおま』言わずと知れた大中恩先生の永遠の名曲『いぬのおまわりさん』である。大中恩先生指揮/本家・コールMeg のコンサートでは必ず男声団員の中から犬が一匹出てきて聴衆に愛嬌を振りまくと伝え聞いた本混の犬どもは、オリジナルよりかなり過激に、あるいはお行儀悪く、傍若無人な珍犬に育っていった。学校訪問で小学生に大受けした初代のボクチャン・ドッグ、多才な表情の二代目のチヨダ・ドッグ、何をやり出すか予測のつかない三代目のオバラ・ドッグが有名(他にもサカモト・ドッグ等数頭が存在)だが、時には二匹ないし三匹が入り乱れて、遠吠えをしたり、尻尾をふって舞台を歩き回りながら犬語で会話をしたり、誰かが子猫ちゃんになってニャーンと裏声で鳴くと、鼻をヒクヒクさせてあちこち嗅ぎまわったり、派手なクシャミの競演になったり、あまつさえステージであることを忘れてか片足を上げ、不埒(ふらち)な行動をおこしかけたりする。これらの演技には一切の打ち合せがなく、目と目で示し合わせての瞬間のアドリブであったことは団員以外にはあまり知られていない。

『バナたべ』これも大中先生の名曲『バナナを食べる時の歌』である。メグさんはジャズやポップス、特にラテン風のリズムを童謡に取り入れるのが好きだった。この曲は当時大流行のマンボ。前奏や間奏ではペレス・プラードよろしく“ウーッ”とかけ声が入る。本家・コールMeg では最初の「バナ〜ナーー」のソロを歌った男声が舞台の隅に腰掛けてバナナを食べながら例のかけ声を発する。当時、東京へ転勤になった小澤夫妻と、もう一人、テナーの田子力君がコールMegに加入していたので、本家のアクションを見た日に帰りの電車でバナナマン育成が決められ、本混の初代バナナ・マンは、ゴールデン・ポケッツの高柳君であった。「バナ〜ナーー」のソロは作曲者の指示通り思いきり間の抜けた表情で絶好調。ところがだんだん演技に酔ってくると“ウーッ”が一拍遅れ、慌てて“ウッ”となる。これがまた計算外の御愛嬌で滅法楽しかった。二代目はウエダピアノの御主人・植田豊久君。トリオ・ロス・パンチョス風(と言うよりドン・タコス風と言った方がわかりやすいかも。それも古くてわからないって?、悪かったネ)スタイルがぴったりで愉快であった。その後も上里出身の岩也裕貴君その他幾人かが栄えあるバナナマンを演じている。現在の本混にバナナマンが育っていない。“ウーッ”がなかなかリズムに乗らないのである。マンボを知らない世代には演じることが不可能なキャラなのかも知れない。

『老犬トイレ』犬にかかわるネタをもう一つ。フォスターの名曲『老犬トレイ』を一文字入れ換えただけである。「人生の朝は過ぎ去り黄昏がやってきた。私はかつて幸せだった日の夢を見る。今は老いてしまった愛犬トレイと過ごしたした遠い日々の夢を…」この悲しいバラードの主人公、老犬“トレイ”をあっさりと“トイレ”にしてしまうのは、破壊的ギャグではなくて、老いの悲しみをストレートに歌うのが恥ずかしかった純真なメンバーの照れ隠しであったと推察するが、自分が年老いた現在、余計にその“照れ”を切実に感じるのである。

『ぼくとねる?』フォスターの作品をもう一曲、「人生の春の日に別れたネルと僕、花咲く野辺に薫りが満ちていた日に。この世の醜い争いに出逢い、辛い目にあった僕達…」と歌う、これも晩年の名バラード『ネルと僕』をひっくり返して『僕と〜?』にしちまった奴、どんな神経してたんだろ。やっぱ彼女にフられたばかりで悔やしまぎれだったのかな。ちなみに初代独唱者は甘いテナーの小澤さん。二代目は現団長・田中学さん。現在使っている編曲にはソロ・パートがない。学さんの声が衰えたからではない。彼をソロに回すとテナーの人足が足りなくなるからである。 ピンチのテナーを誰か助けて下さい!(切実な悲鳴です)
     


宿六憲法(本庄混声合唱団既婚団員のための憲法)

 団員間の結婚が増えてきた時代、家庭円満と本混発展の調和を図るため制定(?)された。モデルとなった日本国憲法と大きく異なるところは、結婚式が行われる度に、実情に応じ、時勢に応じてかなりの改訂が行われてもが国会で論戦のタネにならなかったことである。ここには1981=昭和56年度、現在ベースのパートリーダーであり、元団長という本混の重鎮・中園数彦君(ムーミン・パパ)の結婚披露宴でパンフレットに掲載されたバージョンを紹介する。なお法案提出者は小原寛氏であることは100%間違いない。

[前文]
本庄混声合唱団は既婚団員の幸福な家庭生活と円滑な団の運営を目指すため、先輩既婚者の反省と後悔の上に立ち、ここに憲法を制定するものである。
 そもそも男とは概して細部に目の届かぬものであり、女とは細部にのみ目を奪われる傾向を持つものである。家庭に於いてそれぞれなすべきことは『もっと細かいところに気をつけてよ!』『もっと大局的に見てみろ!』と非難し争うことでなく、それぞれの持ち味を生かすことによっていちかぞくとして大局を判断し、細部に気を配るようにすることである と信ずる。
 なお、この憲法に於いては、夫を『宿六』妻を『山の神』と称する。

第一章 宿六
 第一条 宿六は夫婦の象徴であり家族の象徴であってその地位は主権者たる山の神の意志に基づく。
 第二条 宿六は山の神の承認を得て次にあげる行為を行うことができる。  1.麻雀・囲碁 誘われた場合のみとし帰宅が午前零時を過ぎてはならない。 
  2.宴会・飲み歩き 月三回を限度とし必ず会費以上の飲み食いをしなくてはならない。
  3.旅行・外食 自分の小遣いで行うものとし二回に一回は山の神を同行する義務を追う。
  3.一番大切なこと お互いの体調を考えた上で決定され山の神のスケジュールに従う。衝動的なもの及びコマーシャル・タイムは避けなければならない。
 第三条 宿六のすべての行為は山の神の助言と承認を必要とするものとし、その行為にかかる責任はすべて宿六が負うものとする。

第二章 山の神
 第四条 山の神は家庭の主権者であり家庭の運営ならびに育児、家族の健康管理に最大の努力を払わなければならない。
 第五条 山の神は 常に美しくあるための努力を忘れてはならない。

第三章 戦争の放棄
 第六条 夫婦は正義と秩序を基調とする家庭平和を誠実に希求し、夫婦間に於ける戦争、並びに武力による威嚇または武力の行使は、夫婦間の紛争を解決する手段としては永久にこれを放棄する。またネコの目的を達成するため一切の戦力は保持しない。但し、山の神は自衛手段としてフライパン・孫の手及びハエタタキの保有を認める。

第四章 権利及び義務
 第七条 夫婦はすべての基本的人権の享有を妨げられない。宿六及び山の神の両方又は一方が団の練習又は行事のため家をあけることは犯すことのできない永久の権利である。
 第八条 宿六及び山の神の団結権・団体交渉権並びに争議権はこれを保証する。
 第九条 団員が家庭を訪れた際、宿六は山の神と協力して出来得る限りのもてなしをする義務を負う。この条項は他のすべてに優先するものである。

第五章 会計
 第十条 家庭の会計年度は四月より翌年三月までとし、予算は山の神が決定する。
 第十一条 予算額は二人の定常収入(ボーナスを含む)の総和とし、夫婦債の発行については原則として認めない。
 第十二条 山の神は宿六に対し定まった額以上の小遣いを与えなければならない。その額は一日あたり三百円を下回ってはならない。
 第十三条 団費の支出は 他のすべてに優先して確保されなけれはぜならない。

第六章 附則
 第十四条 この憲法に規定された事項の実施にあたっての細則並びにこの他の規則は山の神が別に定める。その際、山の神は宿六の助言を求めることができる。
 第十五条 この憲法は昭和56年4月4日より効力を発する。

 なお、披露宴に参加していただいた方々は自動的に団員に準じた地位を得ることを付記しておく。

   本庄混声合唱団機関誌『たどぽうる』別冊第11号
    1981=昭和56年4月4日(土)臨時増刊『おめでとう数彦君百合子さん』
    本庄混声合唱団印刷局・出版部・機関誌係 編集・発行

 御覧の皆様へ:演奏会の記録等に関しては、ページの性質上、画像が多く、多少重くなっていることをお許し下さい。画像は少しでもダイエットするためにパソコンで見られる最低の解像度に落としてありますので、画面からコピーして拡大すると悲惨な結果になります。鮮明な画像が必要な方は下記へ御連絡下さるようお勧めします。

     
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 演奏会曲目記録『どこでもドア』

第1回〜第10回定期演奏会 第11回〜第20回定期演奏会
第21回〜第30回定期演奏会 第31回〜第40回定期演奏会
本混番外地(サマーコンサート他) 本混雑学事典(こぼれ話)


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